猫を愛するような気持ちで異性を愛せば上手くいくのではないだろうか?
「猫は死ぬまで可愛がれるけど、人間とは上手くいかない」なんて人は多いのではないでしょうか?
今回は人間の異性を愛することと、猫を愛することの違いを考えます。
そして違いがわかれば「異性を愛することに応用が効くのではないか?」まで考えます。
猫(ペット)への愛ってどんな愛?
猫への愛って恋愛とは違うと思うのですよね。
「離れたりくっついたり」ではないし「燃えるように愛しい」なんてことはないでしょう。
「別れない」「燃え上がらない・冷めない」という点で「家族愛」だと思います。
愛の形式 | 成立 | 終わり | 面白さ |
猫愛 | 飼い始めた時 | 死んだ時 | 面白い |
家族愛 | 生まれた時からずっと | 自分が死ぬまで(相手が死んでも) | 空気 |
友愛 | お友達になった時から | お別れすることはある | 空気 |
恋愛 | 恋の部分は一人が好きになった時から(相手の気持ちは関係ない) | 片想いで考えれば「自分が飽きるまでずっと」(相手は関係ない) | 激しく面白い |
「愛」の三つの構成要素
情熱 = 恋愛感情や肉体的な魅力、性的な欲望を含む
親密さ = 温かみや相手との近さ、絆といった感情
意気込み = 誰かを愛する決意とその愛を維持しようとする意気込み
恋は「意気込み」が薄い状態
愛に変わる時に「結婚しよう」など未来を相手に約束する。
猫愛は恋では無い
「猫愛」は「家族愛」に近い
当然だけど「恋」ではない。
恋と愛は相反する感情なのか調べてみましたが
「恋」とは~
「愛」とは~
と分けて考える意見は非常に多いのですが、私(このブログの管理人)の納得できる表現では
恋は愛の一形態、愛に含まれる。
ですから、人間の異性への愛(恋愛・恋)と猫への愛(家族愛)は「相反するモノ」ととらえるよりは
「猫愛は恋愛に応用できる」と考えました。
恋愛って家族愛に変わるのが終着点だと思います
そうであるならば「激しく楽しい恋愛」を「安らげて当たり前に猫を愛するような愛」に変化させていくことは可能なのではないでしょうか?
恋を知ろう
※「恋と愛」の対比です。
「恋と愛が相反するように捉えてる人」が多いですが、そのまま掲載します。
恋は過程 愛は結果
「恋」という過程を経て「愛」に変わるという意見です。
猫愛は恋の過程は経ないし、結果的に「愛していた」なんてものでは無いので、この案は不採用
恋は一人でできるが愛は一人ではできない
恋は片想い可能だけど愛は「想いあうもの」って意見です。
猫を愛すのに両思いである必要はありません。
「まずは自分が愛するべきです」
でも「片想い」をしてるわけではありません。
この案は不採用。
恋は自己愛 恋は永遠に愛に変わることは無い
「私と同じようにあなたも愛しなさい」と思っていて、その気持ちが満たされた時に「愛されている」と感じる。
だけど「私と同じように」と思ってるので、それは単に「相手があなたと同じように」考えてくれただけ
つまり「自分の愛する自分に相手が似せてくれた」だけで、相手の個性は消えている、そんなのは愛じゃない。
・・・という複雑な意見(笑)
この理屈だと「恋は永遠に愛には変わらない」「愛するためには、”恋する気持ち”と遠く離れないといけない」という理屈になります。
つまり「私が思うように」ではなくて「あなたが思うことを私が受容したい」が「愛」ってことになると思います。
これ理屈が難しいですけど、「猫愛」はこれですよね。
「私がこうしたい」じゃなくて「猫がこうしたい」「猫がこうしたいを認める」「猫がこうしたいを知る」
つまり「愛は相手を認める事(≠相手に合わせること)」ですね。
この意見は「猫愛を恋愛に応用すること」に採用したいです
猫愛は相手を認めること 蛇足的な話
猫に愛されない人って、たぶん猫のこと知ろうとしない人です。
知らないんだから受容できるわけなくて、自分の気持ちを優先させます。
それは愛じゃないです。
猫を室内に閉じ込めるのは「愛」じゃないんです。
猫は家から出たいでしょう、愛じゃないけど「そうしないと一緒に生活ができない」から家に閉じ込めているのです。
「自分がこうであって欲しいと思ってるイメージ」を押し付けている自覚は必要でしょう。
人間に対しても「愛じゃないけど言わないといけない」とか、分けて考えるべきのこともあるでしょう
自分は「こんなに愛してあげてるのに」と思っても
相手は「どこに愛情を感じるべきなんだろう?」と思ってることもあると思います。
相手が「嫌だ」と思ってる気持ちはまず尊重するべきでしょう。
※私の家の猫は室内飼いです。「愛してるから室内に閉じ込めてるわけではない」「猫の気持ちを考えない行為は愛とは真逆の行為」「”これは愛のある行為ではない”と思いつつそうしないといけないこともある」それだけです。愛じゃない「人間の押し付け」は減らしたいですが、「押し付けるしかない」こともやっぱりあります。夫婦でも恋人でもやっぱりあります、ただ「わかってあげる」のは大事だと思います。
愛は恋の延長線上であり それは子孫繁栄のための本能
猫愛に関係ないので不採用
恋とは独りよがり
「恋は精神疾患ですよ」という意見。
ストーカーにもなれる。
この意見は「独りよがりな愛を恋という」という意見みたいでして
では「恋では無い愛とは?」の部分は
(恋でない)愛とは 穏やかな人間関係をつくる感情
だそうです。
猫愛は穏やかな関係なのでこの案は採用
愛は憎悪に反転することもある
この意見は「穏やかな愛も反転すれば憎悪に変わる」という意見
(「恋なら憎悪にならない」とかいう意見では無いです)
愛はもらえば嬉しいけど、もらいすぎると重たいもの
・・・なんて意見も。
猫愛は反転しないのでこの意見は不採用。
猫を愛するように異性を愛すれば上手くいくのではないか? まとめ
猫を愛すること=家族愛に近い
「家族愛」と表現するより「猫愛」と表現した方が「好きな異性に対する感情としてより近いのではないか?」
そう考えて「恋とは違う」という話をさせていただきました。
「恋が愛に変わる時」は「相手との未来の約束」という意見もありました。
そして「愛とは自己の欲求の押し付けではなく、相手を認めること」
猫ってのはしゃべらないので、こちらが知ろうとして、時には勉強して、認めてあげる。
猫とは上手くいくんだけど、異性とは上手くいかない人は
人間も「しゃべらない動物」くらいに思って「学習して押し付けない、相手を認める」ことを意識してみてはいかがでしょうか?
「君のために言ってあげてるんだ」なんてのは「猫はそのうち慣れるから」なんて言ってるようなもので
「猫も人間もよく観察する」それだけでもだいぶ関係は変わって来る気がします。